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執筆者の写真ユーミン

人生のピークは、まだ先にあるのです!

個人コンテンツの時代。

ビューティープロ代表のユーミンこと荒井由美がどんな人生を送ってきたのか、

お正月特別企画?として社会人になった以降の人生について書きました。

長文(約1万文字)ですがお付き合い下さい。



夜討ち朝駆け!?


バリバリ伝説の営業ウーマン



バシッ!バシッ!けたたましい音とともに、「売って売って、売りまくる~!!」と、私は大声で叫んでいました。手には1メートルぐらいに切ったホース。ホースを机の角に叩きつけながら叫ぶのです。


その異様な光景を、約30名の仲間とトレーナーの方が見守ります。一人ひとり順番でその儀式。研修のフィナーレです。女性はわずか3名。大手OA機器、キヤノン販売の新人営業スタッフ研修の最終日でした。私はその研修を優秀な成績で修了し、書いた感想文がキヤノン販売の社内報で紹介されました。やる気満々の私。約30年前、23歳の冬でした。


大学在学中はバンド活動に夢中でした。プロを目指そうとした時期もありましたが、4年生になると夢から覚めて、就職活動を始めました。当時、1983年は男女雇用機会均等法が施行される数年前で、4年制大学卒女子の就職は厳しいものでした。自分自身、何がしたいのかよくわからず、私を気に入ってくれた食品関係の中小企業に就職しました。


入社して3日後には、「しまった!」と思いました。人事の方は私の物怖じしない性格を褒め、「あなたなら活躍できる!」と言い、その言葉を信じて入社したものの、紺のベストスーツに身を包むOLにできることは限られていました。朝は男性社員の灰皿洗い、お茶くみからスタート。女子社員は「ちゃん」で呼び合い、私はまさかの「由美ちゃん」呼ばわりです。私は心の中で、「会社なのにありえない…」と思っていました。


「なんで私が活躍できるの?その根拠は?」。私は未熟で、日々、愚痴のオンパレードでした。会社の悪口言いたい放題で、役員にまで言ってしまう図 々しさ。でも本人は「会社を変えたい」と真剣に思っていました。「私の働きやすい会社に変えたい」ということだったと思います。


しかし、そんなことができるはずもなく、「正論では組織は動かない」と、私を採用してくれた上司に諭され、「どういうことですか!?」と噛みつき、自分で答えを出すしかないともがき苦しみ、自己格発の本を読みあさりました。


そして、D.カーネギーの『人を動かす』(創元社)がスコーンと入り、急に眼の前の世界が開け、キラキラに見えました。


あのとき、間違いなく私の眼にはお星様が輝き、ウルウルしていたと思います。「そうか。自分を変えよう!」と思いました。会社を変えようなんて考えが間違っていた。過去と他人(会社)は変えられない、未来と自分は変えられる。会社を選んだのは自分、誰のせいでもない。そして、「この会社では私は輝けない」「達成感のある仕事がしたい!」と思い、営業職へ転身する決意をしました。


当時、女性の営業職の募集は少なく、やっとOA機器の営業職を見つけました。最初の研修は冒頭のホース叩き。相当ハードな営業生活の前兆です。ワープロもFAXもまだこれからの時代。新製品が次々出て、モノがどんどん売れる時代でした。私は若いし、やる気満タンだし、女性の営業スタッフは珍しいし、入社半年後にはトップセールスになりました。


当時、営業と言えば飛び込みは当たり前。1日100軒飛び込むことも。「受注するまで帰ってくるな!」の時代です。「夜討ち朝駆け」なんて言いましたが、営業のキーパーソンに会うのに朝から押しかけ、ド根性でクロージングしていました。


そして、飛ぶ鳥を落とす勢いだったリクルートへ転職。ここでも、新事業部の立ち上げに関わり、結果を出し、MVP(最優秀営業スタッフに贈られる賞)を獲得。自分のノルマの次はチームのノルマ。とにかく目標必達!週目標達成で現金でインセンティブ支給、そのまま飲めや歌えやで、世間は好景気に沸き、毎日お祭り騒ぎで営業しまくりでした。


「営業は天職!このままキャリアウー マンで、将来は社長になるぞ!」の勢いだったのです。



「ママは太陽」、家庭づくりヘシフトチ ェンジ!



「結婚はプロセスにすぎない。結婚したからとはいえ、私はなんら変わるものか」。そんなことを思いながら、大学時代から付き合っていた彼と24歳でさっさと結婚しました。


その後もバリバリ働いて、飲みに行くと朝帰り、なんてこともありました。当時、相鉄線沿線に住んでいましたが、会社のあった赤坂で飲むと、10時半ぐらいに出ないと終電で帰れません。六本木のアマンドで始発まで過ごしたことが懐かしく思い出されます。


リクルートへ転職すると、さらに仕事がおもしろく、ますます仕事中心になってしまい、妻業はほったらかし。結婚3年目ぐらいになると、同居(台所とお風呂、トイレが別々の二世帯住宅)していた夫の親からの冷たい視線を感じ、このまま仕事を続けると家庭が壊れてしまう…と危機感を感じるようになりました。


当時は「ワークライフバランス」なんて言葉も当然なく、女性は男性並みに働かないと評価されない時代で、仕事と家庭を両立することは難しかったと思います。仕事か家庭か、子どもはどうする。散々悩み、仕事に集中できなくなり、ついに仕事もタバコもやめて子づくり宣言!


義母に、「そう決めてくれてよかった。由美さんと暮らすことは限界だった」と言われ、あやうく危機を脱出。ただ、「子育ては決して私たちをアテにしないように」と釘を刺されました。


 義母は、私が子どもを産んだら、さっさと預けてまた働きに出てしまうのではないかと思っていたようです。ところが、ここが私のいいところだと思います。まだ、人生長いし、気持ちをガラッと切り替えました。そして、一転して専業主婦へ。


思えば女性の20代は最も変化が激しく、選択肢も多い分、悩みも多い時期だと思います。学生から社会人、結婚して妻、嫁、そして母へ。逆に言うと、20代をどう生きるか、何を考えるかによって、その後の人生に大きな影響を与えると思います。現在の私は20代のときにすでにイメージができていました。20代のときの「思考」が、「現実」になっているだけです。


そして、27歳で長男を、30歳で長女を出産。幸せな家庭を築くことを最優先に過ごした7年間、とても充実していました。夫が家庭を顧みないことへの不満はあり、夫婦喧嘩もしましたが、「ママは太陽!母親さえしっかりしていれば、子どもはちゃんと育つ」をモットーに、近所のママ友(当時はそんな言葉はなかったですが)たちと子育てサークル「ひまわりクラブ」を立ち上げ、人形劇をしたり、サッカーをしたり、とにかく子育てを楽しみました。


「家庭の成功なくして、人生の成功なし」と、自分の人生の再スタートは、子どもの年齢から逆算して40歳からと決めていたので、将来への不安はありませんでした。「自分なら40歳からでもなんとかなる!」と信じていました。しかし、思うように簡単ではありませんでした。


35歳でリクルートに復帰。新しく立ち上がった主婦中心の営業部隊。出社義務は月2回のみ、あとは自由。子育てとの両立可能な勤務形態です。給与は少しの固定給プラス歩合給。私は走り回って仕事をし、営業成績も順調に伸び、なんとなく未来が見えてきました。


ところが、1年後に予想外の夫の名古屋への転勤辞令。子どもたちは「いやだ、いやだ!」大泣き。友だちや一緒に暮らしていた祖父母と別れることも辛かったようです。私も、せっかく最高の条件で社会復帰できたのに、また振り出しに戻っちゃうなと、リクルートに別れを告げました。



「子持ちの主婦」という壁にはばまれて



名古屋では再び専業主婦からスタート。半年後からボチボチ仕事を始めました。最優先は「子どもの下校時間に家にいること」なので、当然、仕事の選択肢は狭まります。


まず、午前中だけのテレアポから始めました。家から自転車で5分ぐらいのマンションの一室にある事務機器の代理店。社長と奥様と営業2人の小さな会社です。自ら営業へ行くのとは勝手が違い、アポイントメントもうまく取れず、単調で仕事を楽しむことができませんでした。


奥様からは「ハキハキしすぎているからいけない」と言われました。その上、「荒井さんのようにハキハキ話す人は、名古屋では友だちができないわよ」とも。もちろん、そんなことはなかったのですが、名古屋へ来て初めての仕事でその言葉。少し不安に思いました。


「やはり、営業でないと」と思い、そこを半年で辞め、時間に融通のきく保険の営業。その後、某広告代理店の契約社員を経験。広告代理店といえばお酒落な感じ。ルンルン意欲満々だったのですが、見事に期待は打ち砕かれました。社内は私語禁止でシーンとしている中、上司が頭から湯気を出して、部下を「タ〜ケ、タ〜ケ」と怒鳴る声が鳴り響いていました。


「タ~ケ」って何?その後「たわけ」という言葉とわかりました(ばかものー! という意味で使われるそうです)。「さすが尾張名古屋!武将の町!オトコが威張ってる~」。あ、その後、優しい男性に数多く出会い、今はそんなことは思ってはおりませんが(笑)。


そして、私のような主婦の契約社員は別室に隔離され、社員との会話禁止(ホントの話です)、白髪の上司からはよく怒られました。営業成績が悪くて怒られるのならわかるのですが、「日報を書くのに枠からはみ出すな」とか、細かいことばかりでした。


また、顧客側に立った発言をすると、「会社ありき。会社こそ原則」と怒られ、翌日にはその顧客の担当から有無を言わせずはずされるという始末……: (今はそんなこと言ってないと思いますよ)。


「ここでも前途多難だぁ」と嘆き、契約の期間切れ後に退職し、その後もフリーで化粧品やら出版社やらの営業の仕事を転々とし、それなりに稼ぎながら、「いつかはきっとリクルートの仕事に戻ろう」と決めていました。


そして、時間の経過とともに、子どもたちも成長。長男が中学に入った頃から本格的にリクルートの営業に戻ろうと、求人誌を買って就職活動開始。しかし現実は厳しく、ことごとく「子持ちの主婦の壁」にぶち当たります。そして「年齢制限の壁」。私は四十歳になっていたのです。


やっと面接のアポイントメントが取れ、主婦らしく見えないよう、黒いパンツスーツを久しぶりに着て、気合いを入れて出かけて行きました。そこは「三十五歳まで」という年齢制限がありましたが、電話で私が四十歳であることを伝え、OKをいただいていました。


ところが、現れた面接の女性が開口一番、「年齢制限のところ、見ませんでしたか?」とひと言。私の顔を見ようともせず不機嫌に、「子持ちの主婦の方はその時間だけ来て、周りの人と楽しくやってくれればいいです」「荒井さんみたいな、キャリアがあり、仕事バリバリの方はウキますよ」と、次から次へとそんな言葉を投げつけられました。私よりずいぶん年下のその女性の言葉に悔しくて、帰りは涙が出ました。もうダメかも。名古屋では、私の活躍できる会社は見つからない。そして、子育ても難しい時期で、夫も多忙で家におらず、人生の中で恐らく一番辛い時期でした。


人前で泣くことは苦手でしたので、夜中一人で車を運転して車中で泣いたこともあります。なんか人生うまくいかない。まるで出口の見えないトンネルの中にいるようでした。



十秒で採用決定!!



それでも、私はどこかで自分を信じていました。「絶対このままじゃ終わらない。私が不幸になるわけがない。絶対よくなる」と。そして、チャンスが訪れます。素晴らしい出会いが訪れたのです。一瞬で人生が好転しました。


結局、私はフリーの営業をしていましたが、そのときに知り合った女性が私のリクルートの経験を聞き、ある方を紹介してくれました。スポーツ刈りで健康的で頼もしい雰囲気の男性。その方こそ、私の恩人。リクルート代理店、株式会社ベスト企画の島田博成(しまだひろなり)社長です。


私の履歴書に少しだけ目を落とされ、たった10秒話したら採用が決定!


「いいんですか?子どもいますが?」


「いいよ、だってもう大きいだろ?」


しばし絶句。あきらめないでよかった。自分を信じてきてよかった。念願の仕事に就けて、ここから私の人生は、今までのうっぷんを晴らすかのように上り調子になります。


名古屋駅から徒歩3分ぐらい のところに会社はあり、地下鉄での通勤はとても新鮮でした。入社時、私は久しぶりにグレーのパンツスーツであいさつをしました。「平均年齢を上げてしまいますが、売上も上げるようがんばります!」と。


リクルートは3カ月でひと区切り。私が入社したのは9月。10〜12月までのクォーターに、営業コンテストの新人部門にエントリーしました。まだ試用期間で、時給900円のパート営業です。社長に「どうする?」と聞かれたとき、「とりあえずエントリー、お願いします」と答えました。賞を獲ってやろうなんてこれっぽっちも思っていませんでした。


でも、フタを開けてみたら、あれよあれよという間に売れていき、まさかの新人部門のMVPに輝きました。バリバリ営業ウーマンの復活です!42歳、中学2年生の息子と小学5年生の娘、2人の子どものママでした。表彰式の日のために、パンツスーツを買いました。どこかのホテルが会場だったと思います。私は新人部門のMVPに名前を呼ばれ、会社の仲間から花束を受け取り、スポットライトを浴びていました。


「ユーミンって呼んでください。42歳ですが、私の人生で再びこんな輝かしい瞬間が訪れるなんて、夢にも思ってみませんでした。島田社長に感謝します。人生は、あきらめないといいことがあります。人生のピークは、まだ先にある、この言葉をモットーに、これからもがんばります!」とあいさつしました。「人生のピークは、まだ先にある」と、思わず大声で叫びました。


周りの新人は当然20代前半です。しかし、何も引け目に感じなかった。むしろ、誇らしく思いました。歳をとることは、決してデメリットではありません。私はスポットライトの中で本当に喜びを感じ、人生の新たなスタート地点に立ったことを実感しました。



金なし、コネなし、人脈なし、47歳で起業



売上は順調に伸び、会社の稼ぎ頭になりました。その後もMVPや部門賞をいただく機会がありましたが、私の関心は会社の中で目立つことではなく、自分の人生をどう切り開いていくか、ということに移り、45歳になると、真剣に起業を考えるようになりました。


子育て中の頃、「私の人生は40歳から」と思っていたことが現実となり、「社長になりたい」と夢を抱いていた頃の自分がよみがえってきました。50歳では遅い。なんとか40代のうちに起業しよう。47歳で起業して、50歳で軌道に乗せよう。そう決めました。よく起業には2年間くらい準備するといいと言われますが、私もまさに「2年後に起業」とゴールを決めました。


「厳しいからやめたほうがいいぞ」という社長の反対もありましたが、生涯現役で仕事をしたいとも考えていた私は会社にしがみつくわけにいかず、起業するしかありませんでした。しないと絶対後悔する。でも、子育て進行中で金なし、コネなし、人脈なし……。いや、イケる。「私は私が思っている以上に能力がある」。自分にそう言い聞かせていました。


何で起業しようか、とまず考えました。女性の起業家セミナーに行き、ビジネスプランを立てました。事業内容は、広告の仕事が好きでしたので「広告代理店」。でも、どこにでもあるようなビジネスで今イチ。そこで、「美容業界に特化」ということを考え始めました。リクルート代理店全営業スタッフの中でも美容室の顧客は多く、『とらばーゆ』の見開き2ページ掲載の美容室がほとんど私の顧客、という時もあり、「美容室なら荒井さん」みたいな公式ができていました。


そして、運命の出会いが「ビューティーナビ」という美容室検索サイトです。2005年10月、東海版の立ち上げの話が会社に来て、私は「社長、やらせてください!」と直訴しました。


当時、ビューティーナビをつくった会社が東京のリクルートの代理店だったことからのつながりで、会社の別事業として私がやることになりました。社長からは「求人の数字はちゃんとやれよ」と言われていたので、求人のノルマを達成しつつ、土日祝日に出勤し、ビューティーナビの営業をやっていました。


そして、2006年2月オープン。掲載サロンをオープン時40件に、半年で200件に持っていきました。美容業界での人脈も増え、この経験が「美容業界に特化した広告代理店」というビジネス構想を決定的なものにしました。


2008年2月末に退職をして、同年3月12日、「ユーイング(YOUing)」という屋号で、

個人事業主としてスタートしました。


そのときちょうど47歳。始めるのに遅すぎることはない、そのことを実践しよう。

そう決意を新たにしました。



「自分を信じる力」がすべての原動力



「美容業界に特化した集客·求人のサポート会社」として、無事スタートを切りました。ところが一方で、年明けから夫の体調が悪くなり、会社を休みがちで将来どうなるのか……という不安な出来事が起こっていました。ただし、私にはある程度予想がついていました。人生は振り子のようなもの。プラスの振り幅が大きいほど、マイナスの振り幅も大きいと。


私は「運命はこう来たか」と事実を受け止め、あまり動揺を見せずに、夫に「会社を辞めてもいいよ。私がなんとかする」と安心して療養するように伝え、心にある不安(実際ストレスで左手が思うように動かなくなっていました)をプラスに変えて、営業に走り回りました。


会社の看板がない私。美容業界を良くしたい、活性化したい、とにかくその想いだけを熱く話しまくりました。そうしていないと、不安になってしまいます。私はこのとき、「言霊」(ことだま)ということを実感します。私は自分の言った前向きな言葉に自分が励まされ、やる気になってお客様のもとから帰っていきました。自分で自分を燃やせる、自家発電できる能力をフル活用しました。


そして、何よりもありがたかったのは、元顧客のサロンの皆様が、変わらず応援してくださったことです。美容業界で働く方は本当に温かい方が多い。やはり、「人をキレイにし、感謝される」という 「類稀なる能力」を持った方々なので、ハートが純真なのだと思います。今の私がこうしてあるのは、本当に起業したての頃、応援し、期待してくださった皆様があるからです。


夫の体調はやがてよくなり、子どもたちも成人していきました。


長男は現在、8年間の社会人生活を経て2019年11月にビューティープロの一員となりました。社員数2万人の上場企業(製造業)で、20代で年収600万円でしたが、30歳を目前に会社員としての限界を感じ退職。製造業と美容業界と全くの畑違いですが、ビューティープロで新たな事業を創り活躍しています。


長男が就職活動の年はリーマンショック後で超氷河期と連日マスコミで報道されており、母親の私は内心心配でした。彼とはときどき電話で話をしましたが、感心するほど前向きでした。「人生一度きりしかないから、絶対にあきらめない」と、あの幼い息子が、いつの間にかそんなことを言う大人に成長していたと感慨深く思ったものです。そして、大学卒業の年に東日本大震災が起き、今思うと随分厳しい時代に学生から社会人となったのだと思います。


長女は理学療法士を経て、キャスターやケーブルテレビのアナウンサーなど喋る仕事をしています。理学療法士になったものの、子供の頃からの夢を諦めきれず、26歳でアナウンサーに挑戦しました。長男の時もそうでしたが、「一度きりしかない人生、悔いの残らないように!」と話し、結果的に背中を押していました。

安定を捨て挑戦した2人の子供たち。母親譲りだなあと思います(笑)



一方、家庭を顧みない夫、仕事に情熱を燃やす妻、夫婦のバランスも崩れ私たち夫婦も何度か危機がありました。でも、乗り越えられたのは、子どもたちの存在のおかげであり、「家庭の成功なくして、人生の成功なし」と自分で決めたことを貫きたかったこともあります。結婚生活も35年ですが、この先も色々ありそう(笑)

夫は「働けないおじさん」でした。今はアルバイトに行っていますが。神経質でキレやすく、物事を悪い方に取る天才で非常に取り扱いがめんどくさいです。

俺はサボテンでお前は太陽、太陽がいないとサボテンは生きていけない、と自分に都合の良いことを言っています。ある意味面白い人間ですのでまた夫を題材に書いてみたいと思います



話を元に戻しますが、2012年3月27日に念願の法人化。株式会社ビューティープロを設立しました。51歳。念願の社長です。このときは、「やっとスタート地点に立てた!」と感無量でした。法人化した一番の理由は、「共感できる仲間とともに続く会社にしたい」と思ったからです。そして、美容業界活性化のために社会的使命を感じ、役立つビジネスをしたいとの志を強く持ちました。


少子高齢化、人口減少、価値観の多様化は美容業界にも大きく影響し、特に心を痛めているのは雇用の難しさです。美容師になりたい若者が減少しています。起業したとき、「人材に困らない仕組みをつくりたい」と強く思いました。「美容師になろう!」プロジェクトです。


決して簡単なことではありませんが、困難なことにチャレンジして燃えるのが私の取り柄。スグに結果が出なくても会社が続いていく状況で必ず、そんな仕組みをつくりたいと思います。


一方で、結婚や出産でいったん美容業界から退いた人たちにこの業界に戻っていただけるよう、働きかけたいと思っています。こちらは「美容師に戻ろう!」プロジェクト。私自身、専業主婦を経て社会へカムバック。子育てしながら仕事をし、起業を果たしました。女性が夢を実現していく過程で乗り越えるべき壁は、ひと通り乗り越えてきたと思います。美容業界で働くのは圧倒的に女性。私自身の経験を活かし、美容業界で働く女性に勇気を持っていただきたいと思います。


振り返ると、人生は出来レースです。今まで前ばかり見て突っ走って来た私ですが、自分の人生を振り返ってみると、私は自分の思い描く通りに人生を送ってきたなぁと思います。


「自分はこうなりたい」という強烈な思いと、「家族が大切」という揺るがない軸が自分の中にあり、大きくブレてもちゃんとそこに戻してきました。それこそ「バランス感覚」だと思います。計画通り、今や何の心配もなくビジネスに専念できています。ビジネス経験も充分とはいえず、経営者としては相変わらず未熟者ですが、私には素晴らしい財産があります。


それは「自分の力を信じる」ということ。今までも、この財産で何度も困難を乗り越えてきました。ビューティープロをしっかり育て、美容業界の応援団長、救いの女神を目指してがんばります。


「人生のピークは、まだ先にあるのです!」





<Profile>


荒井由美(あらい·ゆみ)


株式会社ビューティープロ代表取締役。1961年静岡県浜松市生まれ。専修大学卒業。東京、神奈川、愛知と住み、現在静岡県浜松市在住。家族は夫と母。成人した一男一女の子ども。20代でキヤノンOA機器、 リクルートの営業等を経験後、一転専業主婦へ。8年後仕事復帰するも、夫の転勤で名古屋市へ。子育て中心の生活の中でも起業を目標に仕事探し。不遇の時代が続くが、一転チャンスが訪れ、リクルート求人広告営業マンとして42歳で復活。その後、仕事運急上昇。47歳で起業を果たし、2012年、51歳のとき、理美容業界に特化した株式会社ビューティープロを設立。代表取締役となり、理美容業界の活性化のために日々奮闘中。「人生のピークは、まだ先にある」、棺桶に入る寸前までそう思い続け生きることが信条の、明るさとバイタリティーがウリ。最後に、「ユーミンって呼んでください」。


出版:「ナリタイ美容師になろう!」「美容師になろう!」中高校生版、

「理容師になろう!」


その他、コンサル、セミナー、授業、求人に関わるツールの作成








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